臀部と腰を支えられてベッドの代理品としていたテーブルから離れて、繋がったままの身体で蛭魔に抱きかかえられていた。
 「う、うそ…?!降ろし…ッ」突然の浮遊感と深い挿入感とが相交わりパニックになり、思わずがちりと蛭魔にしがみ付く。
 「あー、降ろす降ろす」
 そう言われて移動した先は、ロッカーの前に陣取っているパイプベンチだった。
 蛭魔がそれに腰掛けて、その蛭魔の上にまもりが抱っこみたいに。実質は蛭魔の上にまもりが跨がり座った
 ちょうどその場所で繋がっているのだが。
 「やり辛え、アッチ」
 テーブル上で行なうピストン運動の不便さを既に忘れたみたいに、蛭魔はとっとと軽く腰を揺さぶった。
 「ん…!クゥッ…」
 まもりの方は心身共々衝撃に、正直この拍子で浮かんでいた涙を落してしまったほどだというのに。
 蛭魔を睨みつけても無駄なこと。いつもの如く高笑いで終るだけ。
 いつもだったならまもりもここで叱りつけるのだが、今は瞬時に言葉が出てくる状態じゃない。
 じとっと睨みつけていると、目線の高さがほぼ同じにやけたままの顔が近づいて口を吸われた。
 かつんと前歯がぶつかり、舌が入ってくる。
 弱く噛みついてやった。
 「痛て…」
 ごっ、と額をぶつけられて軽い頭突きを食らわされて、でも全然痛いものではなかった。
 「痛いのはどこをどう考えてもこっちよ」と言ってやったけれど。
 睨み合いのまま再び唇を合わせられて、腰の後ろに回した手で引き付けられて身体の前面が触れ合う。
 じっとりとした汗が接着剤になり潤滑材になり皮膚下に潜む官能をぬるく摩擦した。
 「く…う、ん、ぅう」
 この体勢で上下に腰を振られると、蛭魔が自分も知らないような深い内部に収まってくるとより認識した。
 繋がった箇所はやはりまもりの身体に苦痛しか伝えない。
 けれど粘液の分泌が渇くことは決してなく、ぢゅ、ぢゅと蛭魔の揺さぶりと同時リズムで音を出す。
 合わせた唇は震動と唾液のぬめりでずれて荒れた息を吐き出した。
 「は、っ…ア」
 蛭魔の突き上げが苦しくて快感ではなく痛みによって声が洩れる。
 知らず知らず無自覚に腰が逃げようとして蛭魔が押さえる。
 頭部が揺れて天井に向けた目がじんじん滲み涙が飛び散りそうだ。
 「ぃ…う…ぅア…あぁ…はっ…」
 ぐ、と胸元に顔を埋められそのまま押されて身体が斜めになったかと思うと、パイプベンチに仰向けに倒された。
 幅が狭くて、落ちそう。でも蛭魔がそうさせない。
 太腿を抱え上げられ挿入部分から固定する。
 「あっ」
 一際ぐいっと穿たれた。
 覆い被さる蛭魔に、まもりは眉を歪ませながら無我にその後ろ首へ手を掛ける。
 蛭魔が息を吐き出して、もう一度深く突き上げ、抽挿する。
 痛いし、背中も堅くて痛いしそう言えばわたしたち何で部室でやってんの?シャワーも浴びてない、と
 今更もってまったくどうしようもないことに思考は飛んだ。
 激痛に自己防御装置が気を逸らそうと働いたのかもしれない、効果はほぼ無意味だが。
 パイプベンチまで時折ががっと鳴く。
 頭に白光の侵食が広がっていくようで、果たして意識を保ち続けられるのだろうかと心配を感じた。
 眼膜に盛り上がる水分を瞼で堅く塞ぎ止める。
 止めきれなかった痛覚による肉体反射がこめかみに流れて淡い筋を作った。
 耳につく。粘膜を擦り合わせる音、軋むパイプ音、時々床と擦れる蛭魔の靴裏の音、苦痛を吐き出す自分の喘ぎ声、蛭魔の呼吸音。
 滲む焦点を蛭魔の顔に凝らしてみた。
 まもりの上で律動する蛭魔は、射竦められそうな目をしていた。
 苦しげに堅く瞼を閉じ開いてまもりを見詰める目は、まるで海の果てからまっすぐ向かって来る鮫の眼光だと思った。
 指先が、ぴりぴりと震える。
 震える指先で、皺を寄せる蛭魔の眉間に触れてみた。少し無理して上体を浮かさないと届かない。
 「……ぅ、っ」
 蛭魔が食い縛った奥歯の奥から小さく呻きを零し落す。
 蛭魔の首に掛けていた手が震動の拍子に汗で滑って外れた。
 まもりは濁流に流される人のように蛭魔の激しさに狭いパイプベンチから身がずれる。
 させじと首の両脇に手をつけ、まもりの腹へ大きく突き上げ、さらに肩を掴んで押さえ揺り動かす。
 長い蛭魔の親指がまもりのこめかみを下から上に一瞬触れて離れた。
 天に向けて蛭魔の顎が反り返り喉仏の膨らみが見えた。
 強烈に男だと思った。
 蛭魔は思いきり腰を沈め、まもりの内側をかき混せ、抉る。
 その深い動きで更に際立った胎内に打たれた熱の塊のような楔に。
 灼熱みたいな蛭魔に。
 殺されるのではないだろうか、という一文が、頭の内のスクリーンに鮮明な文字で浮き上がった。
 そして、そうされてみるのも良いんじゃない?…と思った。
 それはひどく、甘美に思えた。
 しかし不思議なのだが同時にその裏側で、死にはしないという自信もあった。確信を持っていた。
 自分の身体は蛭魔を受け入れることで死ぬものではないのだ。
 それが誇らしくもあった。
 肉体の痛みによって変に頭が澄んでいるらしい。
 それでも度を越える激しい苦痛に歪む目を懸命に見開き、まもりは蛭魔を見上げていた。
 肌を突き破って火を噴き上げそうなほど熱いのに、身体中から震えた。
 それが畏怖なのか狂おしさなのかジレンマなのか愛しさなのか諦念なのか汗が滴る肉体的肌寒さなのか苦痛なのか、何がなんだかわからない。
 「ん、く、…んァ、…ああ…ア…は…あ、ああ、ぁ、あ」
 激痛に鈍った身体の中でそれでも蛭魔が脈打ったのがはっきりとわかった。
 圧倒的な質量が更に増して、息が止まりそうになった。
 蛭魔がどんな発音か聞き分けられないほどごく小さな空気震動を喉奥から出し、押えつけたまもりの肩をぐっと下腹部方向へ押しやる。
 骨が軋んで一瞬本気で折れる、と信じた。
 だが蛭魔の手はまもりを壊さず力の方向を変化させ、首の後ろの窪みに滑り込ませてその身体を寄せてきた。
 まもりの額に蛭魔の鼻先がぶつかり身体が一番深い場所まで沈み込む。
 蛭魔の目線の先を追いかけるのにまもりは自分の頭上に顔を反らせた。
 蛭魔の終末だとわかったのは、本能、の成せるせいだと無意識に解する。
 まもりの内部の薄い皮膜の向こうで蛭魔が熱い体液を吐き出すのに強く震えている。
 まもりは本当に息を止めて、止めようと思ったのか自然にそうなったのかわからない、その数秒間に任かす。
 首の後ろの手、強張った筋肉、詰めた息、それらがふっと緩和して。
 自分の内部にある蛭魔の男根もあれほどの膨張はなくなったと気がついた。
 蛭魔の、荒らい息遣い。
 自分の呼吸もゼィゼィと掠れていた。
 目の先で喉仏が上下に揺れている。
 それがひとつ大きく皮膚の内へ引っ込み、ごくっという音がした。
 蛭魔の手がまもりの頬に移動し、両手で顔を挟まれた。
 息が弾み続ける二人の顔がはち合って、うっすらとだけ開けた蛭魔の目の上に生えた睫毛が近づき、まもりの目と目の間に口を押し当てられる。
 蛭魔、の。
 濃密な呼吸の粒子が、ひとつひとつ目に見え出して、降り掛かってくるようだった。
 それらはまもりの表皮を焦がすように張りついて毛穴へ溶け込もうとしてくる。
 蛭魔の息だけじゃない。独特な部室のにおい。汗の香り。自分の二酸化炭素。
 自分や蛭魔が流した濃い体液も。蒸発したそれらが水蒸気となってそれより温度の低い夜気の中を飛び交っている。
 蛭魔の白い濡れた尖った歯が離れていくのをまもりは瞬きもせずに見ていた。
 涙さえ出ず、ずっと目を瞑らなかった。
 「…っ」
 「ぁ」
 蛭魔が低い控えめな息と共にまもりの胎内から男性器を引き抜いた。
 蛭魔の両腕を握っていた手が、力を失ってパイプペンチに乗るスペースのないまま糸の切れたようにぶら下がり、床に爪が当たりその冷たさを指先に浸透させた。
 覆い被さっていた蛭魔が上体を起こす。身体を離す。
 身体の上を空気が吹き入り、物凄く分かり易く、寂しさを感じた。
 内側からどかどか暴れる心臓を感じ息がヒューヒュー乱れたまま、どうすることもなくて、天井を見上げ続けていた。
 「…え、わ」
 離れた蛭魔の身体が戻ってきて、まもりの上に先程の如く覆い被さった。
 目をぱちくりさせる。
 まだ心拍数が整いきらない蛭魔の身体(当然まもりも整っていない)がまもりの湿った肌(当然蛭魔も汗ばんでいる)に重なり、ゆるく抱き締められて、脱力される。
 まもりの首や腰の隙間に手を差し入れてバランスと体重を調整しているのだろうけど。
 細身といっても筋肉が詰まった蛭魔の身体は狭さのため不安定なパイプベンチの上で正直まもりに重かった。
 でも、ちっとも嫌な重みではなかった。
 蛭魔が一旦離れたのはコンドームの残処理をするためだったとまもりが気がついたのはこの後服を着込んでからだ。
 この時間は理由なんかどうでもよく、ただ頭をぼーっとさせていた。
 蛭魔は達した虚脱感だろうし、まもりはぼろぼろなほど疲労感が大きく、何も発さない。
 まもりはだらりと放っていた両手をやっと蛭魔の首にまわした。抱くというより乗っけた、という按配だ。
 身を余韻にゆだねる。
 互いの温度や湿度や心音と呼吸にたゆたい茫然と許すこの時間に、それから暫く二人とも浸り続けていた。
 
 動き出したのは当たり前と言えば当たり前、当然蛭魔が早かった。
 呼吸が落ちつき、心拍数が通常に戻ったならば蛭魔は身体を起こして「あっちーな」と呟いた。
 それでまもりも、ああ終ったんだなあと感慨でもなく単純な区切りとしてすとんとそう思った。
 ところが肉体の方はというと、まったくもって言うことを聞いてくれなかった。
 蛭魔がサイドボード上のカップを手に取り口に含んでいるのをずるいわたしも喉渇いたとぼんやり見ていた。
 「あの、ヒル魔くん…」しゃべったら喉がいがらっぽかった。
 「あ?」
 「ごめん、ブラウス取って…」
 起き上がれなかった。
 なけなしの力で床に落ちているブラウスに手を伸ばしてみようとして、すぐ止めた。
 身体を捻ったところで、痛覚が下半身に波打った。
 それでも終ってしまえばこんなところで半裸(ほぼ全裸と大差ない)になっている不自然さにブラウスは保持したかった。
 蛭魔は大人しく拾い上げて、一緒に下着まで投げてよこすのにはどうしようかと思ったが有難いのは事実なので礼を言う。
 それから蛭魔は、動けないまもりに何かと手を貸してくれた。
 ぱちん、と電気のスイッチを蛭魔が入れて唐突に光りが目に刺し込み、眼孔を調整するのにちかちか虹色の粒が飛び散る。
 部室の中が明るく全貌を暴いたことで、いつの間にどこか忘れていた羞恥心が急に呼び戻り、
 上体に掛けたブラウスの襟で口元まで隠した。
 蛭魔の方は上半身裸のまま水道で濡らしたタオルを「先に身体拭けば?」なんてまもりに渡してくれるので、曖昧に頷いた。
 今の今まで気付きもしなかったのだが、まもりとパイプベンチの間にはテーブルに敷いていたバスタオルが
 ちゃんと――もっともそれは、まもりの腰下によれて固まって何か意味があるようには思えずちゃんとと言えるかどうかだが、あった。
 なんだかんだ物凄く、実はまめだよねえ…とつくづく、しみじみ思った。
 そんなにまめなら、すっかり頭から忘れていたのだけど、蹴り飛ばして散らかしたフィギアもちゃんと片付ければいいのに、と光りに照らされて床に転がる人形たちに思う。
 「飲むか?」と尋ねてくるので、
 「…コーヒーじゃないほうがいい」
 「てめ…。入れる前に言え」
 普通はカップに注ぐ前に訊くべきだと思った。
 「だってヒル魔くん絶対ガムシロもミルクも入れてくれないんだもん」
 「んなもんコーヒーじゃねえだろ」
 蝿も飲まねーよ、と自分の味覚のこだわりを人にまで押し付けないでほしいものだ。てゆーか蝿ってコーヒー飲むの?
 麦茶を入れたカップをパイプベンチのまもりの頭上に置く。その隣には水を絞ったタオルもある。
 蛭魔から渡されたは良いのだが、受け取るために腕を上げるのも本当にいやだった。
 億劫でたまらない。
 「…ごめん、起こして」
 とブラウスで胸元を隠しながら蛭魔に向かって片手を差し伸ばして頼む。
 まだ寝転んでいたいし光りの下でこんな格好を蛭魔にかなり見られたくもないのだが、どうにもなりそうもないので、仕方ない。
 引き上げられるのを「…いったぁ…い」と呻きながら堪える。
 「…乗ってたジェットコースターが、」どうにかパイプベンチに腰掛け眩む頭を押さえながら、蛭魔に聞かせるでもなく独り言として呟いた。
 「故障しちゃって連続三十往復もしちゃったカンジ…」
 それで身体はともかく気持ちとしては、悪い気分ではないのだから自分そうとうすごんいんじゃない?と変な感心をしてしまった。
 「頭が鳥の巣になってんぞ」
 蛭魔が笑いながら言った。
 「だ…」
 誰がやったと、と言おうとして、そんなさらに蛭魔から言い返されたら妙な方向に話しがいくかもしれないこと言えないと押し留める。
 「…誰がやったと思ってるのよ」口の中で呟いて、手ぐしで髪を梳いた。
 
 まもりが服を着る間、蛭魔が何をしていたかと言えはテーブルの椅子に座っていつものようにパソコンを操っていた。
 いつもと違うのは熱いのか上半身を晒した格好のままだということだ。
 それも汗が引いたらならシャツに袖を通し、再びタイピングを繰り返す。
 その背中が気にならないわけでもないが、別室などない――あってもわざわざ移動もしたくないのでパイプベンチに座ったままさらに数分ぼーっとし、のろのろ時間をかけてまもりは身支度を整えた。
 「復活か?」
 靴下のまま硬い床をひたひた歩く奇妙さを感じながらテーブルの下に落ちている靴まで辿りつくと、画面から目を外さない蛭魔に言われた。
 「復活…っていうか…、うーん…」
 蛭魔に注いでもらったカップをテーブルの上にことりと置き、靴をつっかけながら曖昧に唸る。
 椅子を引いて腰掛け、テーブルの端に両手を付いてその甲に額を乗せた。
 「…ああ、うん、でも、歩けるみたいだから、ヘイキ」
 あけすけに言えば、股の間が変だった。
 未だ何かが入っているような気がする。身体を動かすと消えない異物感がいちいち腹を引き攣らせた。
 でも、眩暈も消えたし動けないわけじゃない、歩ける。なんとかなった。
 「タクシー呼ぶか?」
 「…いらないわよ」
 蛭魔御用達専用タクシーも、かと言って本物のタクシーも本当にそれで帰りたいくらいだがそこまでの所持金など持ち歩いてない。
 家に着いたところで親に支払ってもらう、というわけにもいくまい。
 「…タオル、あの…買って返すから」
 顔を突っ伏したまま言った。
 「あ?」
 「タオル。その、あの、さっきのハンドタオルもヒル魔くんのでしょ?アリガトね。…両方とも、買って返すから」
 「別にいらねーけど」
 タオルくれえ、と言う蛭魔に「いいから」と少し強い口調で言うとてめーあの変なクマとか買ってくんじゃねえぞと笑うので、心底ほっとした。
 いま絶対、耳まで真っ赤だ間違いないと、自分でわかる。
 ボブカットの髪が表情を隠してくれるのが助かった。
 いつもと何ら変わらない蛭魔の不遜な態度が今は本当にありがたい。蛭魔のふてぶてしさに感謝する日が来るなんて、思いもよらなかった。
 と、さっきのセリフは暗にまもりのショーツを馬鹿にしているのだろうかと今更思い浮かび、本当にロケットベアのタオルを買ってやろうかと思った。
 「…帰るの?」
 パソコンの電源を切る電子音が聞こえ、顔を横にして僅かな髪の隙間から蛭魔を見上げる。
 「ああ。おめーが大丈夫ってならそうする。つーか、もう十時だ」
 「え?!」
 思わず顔を上げて、部室の隅にある時計に目をやった。
 「やだ、延長九時までなのに、大変」規則を思い切り破ってしまった。「警備員さん見回りに来なかったのかな」とまもりが言うと、
 「暗いままやってたから気付かなかったんじゃねー?」あっさり言うので顔からボンと火が噴いた。むしろ規則よりよっぽどその危険を今更自覚し、
 どうにもならないのにあたふた感じる。
 パソコンを閉じ、椅子から立ち上がったところで顔を赤くし固まっているまもりに気付き、蛭魔が言う。
 「なんだ、明るいとこでやりたかったのか?」
 「そんなわけないでしょ!!」
 全然違う。声が裏返ってしまったほど全力否定。
 「どうだか」
 蛭魔はフンと鼻白む。まもりを見下げ、眉間を歪めて厭味に笑う。
 「だいたいてめー、人のイキ顔まじまじと見ようとすんじゃねえよ」
 「いっ、そ…ッ!」
 そんなこと、それは、そうだったかも…しれないけど。でも恥ずかしげもなくそれをからかいネタに出来てしまう人に言われたくない。
 第一蛭魔もまもりを見ていたではないか物凄く恥ずかしかった。女の子は見るべきではないのだろうか。そんなのなんだかずるい。
 「だって綺麗だったんだもん、見てたかったのよ」
 ぷん、とそっぽを向き口がつるりと滑ってから、あ、これって男のコに対する褒め言葉じゃないと思った。
 でもまあ蛭魔だしいいかと思ったのだけれど蛭魔が「は?」と言った。
 蛭魔に「は?」と言われてまもりの方はへ?と思った。
 吃驚して蛭魔の顔を見てみて、まずます吃驚した。だって蛭魔が吃驚した表情で固まっていた。
 「は?」の口の形のまま、ちょっと呆けたような感じで、動かない。
 それでまもりも固まった。だって、ちょっとこれってすごい。
 蛭魔の呆けた顔、うっわー一体何人の人が見たことあるというのだろう?天然記念物に指定できないだろうか、あ、天然記念物ってそういう物じゃないか。じゃあなんだろう?いやいや、そういうことじゃなく…
 それは五秒にも満たないような短い間だけだったけれど、まもりにはとても長く感じられた。
 二人して凍った時間を解凍させたのは蛭魔の馬鹿大きな声だった。
 「テメー!殺されてえか!!」
 一瞬にして禍禍しいオーラを背後に背負い、三白眼を吊り上げながらいつの間に手にしたのか
 右手にベレッタM92(という名称のセミオートマチックハンドガンだったがまもりにそこまで知識はなくピストルだと思っただけだ)が握られていて照準をまもりの眉間に合わせる。
 一瞬なんで蛭魔がそこまで怒るのか理解できなかった(後で考えてみたときもそれほど怒ることだろうかとしか思わなかった)が怒鳴られれば自分にさほど非があるわけじゃなし反射的に怒鳴り返した。
 「なーにーよー!!」
 アメフト部の一日はキャプテンとマネージャーの争い声で幕を閉じる。
 
 部室の中も窓明かりだけで夜目が効いていたが、外に出てみれば夜空にぽっかり明るい月が座っていた。
 「――とすると、ラインが勝負所になる?」
 「わかり切ってんだろんなの。破られりゃ向こうは体格差に物言わせてきやがる」
 帰り道がいつもと何か違うかと言えば牛歩の如くにしかまもりの歩幅が進まず、蛭魔のコンパスの幅が狭いというくらいだ。
 まもりの鞄は蛭魔の手にあるが、まもりの手には大判のバインダがある。
 ファイリングされたページひとつひとつをまもりが捲り、蛭魔が覗き込む。
 住宅地の黒いアスファルト上に街灯が等間隔で白っぽい光りを落している。
 少し以前までその灯で蛾がジジっと身を焦がす音が聞こえたものだが、ふと顔を上げてみて電灯の周りには
 ごく小さな羽虫しか舞っていなかった。
 今年の夏は、なんとなく季節感が乏しく感じられた。
 幼い頃から毎年セナと浴衣で行く近所の祭り、友達と行く人の混み合ったプール、ファッションセール、花火大会、うだる湿度の高さすら。
 まもりの四分の一の血脈であるあの土地にそれらすべてを奪われたせいだろう。
 光りに群がる羽虫に、ふと季節の変わり目を感じた。
 まもりは口元でフフっと少し笑って、言った。
 「でも、ちょっと楽しみだね。あの三人のパワーアップは、すごいもん。小結くんも元から基礎体力あったし」
 楽しみ、だなんて、こんな強気の発言を自分がするなど蛭魔の強気が伝ったのだろうか、なんて思った。
 「栗田くんは…」そこで少しだけ言葉を切り、苦微笑する。「うん、ちょっと、ピリピリしてたかな。
 網乃はほんと管理体勢が完璧で、ウチとは正反対だから」
 でも、東京スタジアムに行って、気合が入ったのかな、そうまもりが言うと、蛭魔は不意に、口を開いた。
 「大物ほどよくビビる」
 「え?」とまもりが見上げると、蛭魔は前を見たままだった。続けた。
 「純粋さや真剣さのすべてを出し切る『試合』ってやつを、神聖なものと捉える。
 だからその気持ちがでかけりゃでかい分だけ、直前でビビる、礼儀みてえなもんでな」
 「……」
 ジュンスイ…シンセイ…レイギ……。まもりはちょっと目を丸くした。
 プっと噴出してしまい、「や、やだヒル魔くん…」
 笑い出したいのを慌てて噛み殺したのは、なにも蛭魔の口からそれらの似つかわしくない単語が出てきたから――まあ、まったくとは言わないが、ではない。
 「誰も、栗田くんが信用ならない、なんて、言ってないよ?」
 すぐ笑いを引っ込め、まもりは言った。
 「わたし、わたしも誰も、栗田くんにそんな風なこと思ってない。みんな、信じてる。ヒル魔くんと同じようにね。みんなだよ?」
 まもりが蛭魔を下から伺うと、蛭魔はやはり前を見たままだった。相も変わらず、不敵な顔。ぼつりと言う。
 「たりめーだ」
 それでまもりはまたファイリングを読み上げ、こっそり笑いたくなる頬を、下を向いてバインダに目を落すことで隠す。
 蛭魔は時々それに口を挟んだ。
 ちなみに、時々いつの間にか口喧嘩に話しが流れた。
 蛭魔と同じように皆が栗田を信じているとまもりは言ったけれど、やはり蛭魔ほど栗田を信じている人はいないだろう。
 馬鹿にされたくないのだこの人は、栗田のことを。
 蛭魔は戦術プランに栗田を加入させない。どころか、試合の対戦校を目前になってようやく知らせたりすらする。
 最初は、なんだってそうなのだろう、と思ったが、やがて理由は想像ついた。
 メンタル面の弱い栗田が畏縮するからだ。
 そしてそんなことになられるくらいなら、蛭魔はすべてのことを一人で片付けてしまう。
 栗田が倒れれば、蛭魔も崩れ出す。
 蛭魔がすべてを負担しているように一見思えて、しかしおそらく間違いない。蛭魔は栗田を頼っている。
 純粋…ね、(そうだね、)とまもりは思った。
 蛭魔のような男の側にずっと共にいた人が、栗田のような男で良かった。
 まもりも栗田がすごく好きだ。
 あっさりまもりのことを四人目の仲間と言ったのも栗田だったし、栗田は即座に自分の感情をそのまま全身で表現する。
 気持ちを隠す術さえ持たない栗田は確かに純粋だ。そんな男が蛭魔みたいな人物を、すべて、信じている。
 純粋、真剣、そうなのかもしれない。誰もが試合に対して不安を覚える。それまでの練習が純粋で真剣で真面目であれば
 あったほど余計、逆に負の感情は大きくなってしまうものなのかもしれない。
 蛭魔はそんな栗田を強引に引き上げる。
 栗田で、本当に良かった。
 そして、蛭魔は普段、己のなんの考えをも吐露するようなことを決してしない。ほんの微量たりとも、まもりに、おそらく誰にも、絶対に言わない。
 ああ――秋大会が、近いのだなあ、そう思った。

 

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